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にぎわい通信No.16
にぎわい通信 No.16 (2006.8.2)
10月17日、本当に青空が天上まで透けて見えるような秋晴れの一日。今回の趣向としては、駅前のイベント広場において稲葉実行委員長が「一日楽しんで欲しい」とはじめて開会を宣言。続いて、橋本市長さんと河内長野にぎわい21の塔本会長が加わって、鏡割り、振る舞い酒と、例年になくにぎやかなオープンとなった。
第3回目を迎え、古き懐かしき昭和をテーマとした「にぎわいの里復活事業」では、天野酒酒造、長野神社のフリーマーケット、商店街の出店コーナーなど、これまでの企画を引き継ぎながらも、新しい試みも行われた。駅前ステージでの昭和加養ショーや踊り(合間を縫ってファッションショーも開催)の発表会は、今年初の企画であった。またなつかしい昭和を味わっていただく目玉としては、忠実に再現したすいとんとクラシックカーのミニギャラリーがあった。後者は、堺市が秘蔵しているBMWの世界に1、2台しかないクラシックカーだけでなく、大阪一円から愛好者が集まり、大事に乗ってきた愛車を一般に公開していただくなど、新しい企画も行われた。他方、にぎわいプラザではチャレンジ・ショップに加えて、奥のコーナーへの手作り品、骨董などの出店もあり、大勢のお客さんで賑わうことになった。
主催者発表でも、参加者は15,000人と、初回の12,000人や2回目の10,000人を上回る盛況ぶりとなった。「石の上にも三年」という諺通り、辛抱強く続けてきたことの成果が、大きかったと言えるのではないでしょうか。
河内長野市のミステリー
なぜ、河内長野市の爪楊枝の出荷額は日本一なのでしょうか?
河内長野市の爪楊枝の出荷額は、全国一だと言われています。爪楊枝の材料である白樺があるわけでもないのに、なぜ、河内長野市が爪楊枝の出荷額で全国一なのでしょうか、新しい「切り口」で、爪楊枝博士の稲場さんのお話を紹介します。
このミステリーを解くためには、爪楊枝が利用されるようになった歴史をさかのぼる必要があります。
○奈良時代
楊枝は奈良時代に仏教と共に、インドから中国、朝鮮半島を渡って日本に伝わってきました。そもそもはお釈迦様が弟子達に木の枝を使って歯を磨けと言われました。お釈迦様が使い、投げ捨てた木の枝は、芽が出てやがて大きな木となり、それを“ダンタカーシュタ”、サンスクリットで歯の木と呼ばれました。“ダンタ”と言うのは今の英語の“デンター”の語源であり、インド数字で“32”を表す。何故教えられたかというと、健康を保つにはまず入り口だという。仏教用語に僧侶が身につけて置くべき十八の大切な物を意味する“十八物”という言葉があります。なんと第一番目が楊枝です。インドではニームやバブールという木が使われていましたが、中国には無かったため楊(やなぎ)の木が選ばれました。日本で初めに楊枝の大切さを説いたのは、曹洞宗の開祖道元です。彼は楊枝に出会うことは仏に出会うこととまで言っています。今では口を清めることから始まって、柳の葉で水を払う身を清める儀式となって残っています。千手観音の左手十七番目に持っているのが、楊枝です。このため、別名楊柳観音ともいわれています。
〇江戸時代
「ようじみせ」の店先で職人が手で作っているものでした。その時の材料には黒文字を使っていました。黒文字の原木を割ると中が綿状になっているので、その周りを使います。厚み、巾を一定にした真四角の棒を作り、これを束にして楊枝の寸法に切り、先を削って作っていました。また、黒文字の樹皮の部分も使えば、高級料亭で使われている楊枝が出来ます。
〇明治時代
江戸の終わりから明治の始まりにかけて楊枝を使う人が多くなってきたので、生産と販売が分かれました。その頃、河内長野に材料の黒文字がたくさん生えていました。ゆえに、明治16年に垣内清太郎が楊枝職人を2人、河内長野に連れてきたことから農家の副業としての楊枝作りが始まりました。その後、大正3年には大阪府の農家副業成績品展覧会で表彰されました。
〇大正時代
楊枝の材料に卯木を使用するようになりました。卯木を薄く何枚にもスライス状にしていき、これを縦に切りヤットコで引き抜き丸軸を作っていました。
広栄社の前身は東洋爪楊枝工場(大正6年創業、創始者稲葉由太郎)でした。この東洋爪楊枝工場は三重県の関町で創業を開始しましたが、新しい販路を見つけるよりも、手っ取り早いので河内長野に向けて出荷することになました(三重での製造、河内長野での販売の分業が成立)。
大正12,13年に平楊枝がアメリカから輸入されてきました(白樺を材料とした機械製)。三重県で倒産が相次ぎ、機械化の波が楊枝にもおとずれ、東洋爪楊枝工場でもアメリカから平楊枝の巾にした板の両端を削る機械と平楊枝の型に打ち抜く成型機械を購入しました。ちょうどその時、三重から河内長野への嵩の高い製品の輸送の困難を感じていたこともあり、機械を河内長野に設置することを稲葉由太郎は決心しました。この後の機械生産の成功により河内長野は楊枝の独占産地へとなっていきます。
その後、せっかく機械を購入したが、平楊枝に日本人が飽きてしまったたため、平楊枝は売れなくなり、海外向けの輸出商品となりました。また、機械を改造し、四角い楊枝を上下半円のものでプレスして丸楊枝を作る物を発明しました。これは昭和2〜10年に主に使用されましたが、それは木造製でした。
以上のように、河内長野には楊枝の材料である黒文字がたくさん生えていたこと、そこに目を付けた企業家が農家の副業として楊枝の生産を始めたことが、地場産業として発展する理由でした。もっとも、爪楊枝の材料が白樺に変わると、工場は一部白樺の産地へと移っていき、河内長野市は産地としてよりも、むしろ爪楊枝を生産する企業の本社が所在する場所へと変わっていったのです。生産量ではなく、出荷額が全国一というミステリーも、こうした事情があるのです。
なぜ、日本の爪楊枝が海外の安い爪楊枝に対抗できているのでしょうか?
爪楊枝に関する第2のなぞは、最近中国からの価格の安い爪楊枝が大量に輸入されています。それなのに、なぜコストの高い日本の爪楊枝が安い海外の爪楊枝に対抗できているのでしょうか?
中国など海外生産品との価格競争により、大阪府下の地場産業は深刻な打撃を受けています。他社のまねのできない技術を持っていれば、価格以外の点で対抗することも可能でしょう。しかし、爪楊枝は技術的に極めてシンプルで、製品で差別化することは困難に見えます。にもかかわらず、海外の安い製品に対抗できているのは、いったいなぜなのでしょうか。
一般によく見かけられる丸い楊枝は簡単に作れるので、光栄社では、より付加価値を付けることが必要だと考え、「三角形楊枝」を開発することになりました。グローバリゼイションの中で地場産業が生き残るためには、商品の付加価値が必要ですが、実践はなかなか困難です。中小企業では広い分野に対応することは無理なので、広栄社では徹底して大企業にも負けない一分野に特化することにしました。それが「口の分野」です。人間の歯を考えたら、楊枝は丸でなく三角が当たり前だと実感したことから、オーラルメーカーとしての立場に「こだわって」、こだわり続けたということです。
戦後、広栄社は平楊枝と丸楊枝を輸出する企業でした。その頃三角楊枝はまだなく、1930年にアメリカで初めて登場しましたが、10年で廃れ、消えてしまいました。再び登場するのは1960年のノルウェーにおいてです。その頃より、悪くなった歯を直すのではなく、予防するものという認識が広まりました。稲葉社長(広栄社)にも作ってほしいと依頼がきたので「これからはこの楊枝だ」と考え研究を開始しました。丸三年がかりで製造機械を完成させ、輸出にこぎつけました。
しかし、円高により国内参入を余儀なくされるのが丸楊枝では地元の他会社との競争になってしまいます。そこで、ヨーロッパの歯ブラシメーカーに売っていた三角楊枝を国内でも売ってみようと考えました。まず、ライオンに電話をかけましたが、電話口で断られてしまいました。稲葉さんはその時のことを「欧米では絶対に考えられないことで、これが日本の‘関税以外の障壁’以外の何ものでもない」と思われたそうです。次に、サンスターへ電話をかけ、商談がまとまりました。「Dr.ヘルス」シリーズでクロロヘキシリンという薬を先端に付けた三角楊枝を売り出すことに決まりました。売れ行きは順調であると思われました・・・しかし、14年目にして、担当者が変わり、サンスターとの提携は終わってしまいます。その後、目をつけていた中堅の企業に販売を誘われましたが、「糸楊枝とセット」というよくわからない条件付のものでした。仕方がないので、50種類の糸を検討したり、型にプラスチックを流し込む射出成形の機械を作ったりした努力の末、糸楊枝を完成させることがてきました。セットで売り出しましたが、円高のため値下げを要求され、挙句の果てにはベルギーのプラスチック製三角楊枝の会社に乗り換えられてしまいました。
以上の経験から"人には頼っていられない"と感じ、大阪府でデザイン指導を受けることになりました。150人にありとあらゆる楊枝のモニターテストを受けてもらい、その感想をまとめました。平楊枝の感想はさんざんでしたが、三角楊枝は使いやすいという意見もありました。そこで広栄社では「丸い楊枝は料理、三角楊枝は歯」というコンセプトを明確に定めました。そして、開発を始め、‘4色に分けたパーティー用の楊枝’(日本人は料理に楊枝の色が落ちる事を嫌いますが、欧米人はパーティの盛り上げを重視するので好まれました)から‘占い楊枝’まで、いろいろな種類の楊枝を製造しました。この‘占い楊枝’はノベルティとして大ヒットし、最高23万もの注文がきました。
稲葉社長は「毎日の仕事の中で改善を積み重ね、それを5年や10年続ければそれが改革となり発明となる」と、おっしゃっています。実際‘占い楊枝’の時にも4種類の楊枝を手で混ぜるのが困難なことから、色混ぜ機械まで開発するなど、日々の仕事の中から発明が生み出されるのです。また、稲葉社長は「絶対に真似できない自社製の機械、この位やらないと日本では何も出来ない」と言われています。海外の安い製品に価格で対抗することができるというミステリーは、新しい発想と絶えざる革新という努力の末にはじめて可能になるのです。